智ちゃんの志津川ボランティア日記 D
楽しかった三線コンサート 5月21日(土)

みなさまこんにちは。
今朝も朝日で目覚め、いつも5時半です。
5月21日(土)の報告です。.

21日は小雨がパラついていた。
登米では小学校の春の運動会。志津川では中学校の授業参観。

米川を7時40分頃出発、大体40分位で志津川高校到着。
登米市内の小さな橋でも橋の始まりと終わり?に段差がある。
大きな段差は注意看板もあるが、そこは補修されている。
油断すると小さい段差を見逃して、車がかなり揺れる。
道の陥没・隆起は思わぬところにあるので、通りながら注意箇所を覚える。
志津川に入ってから入谷(いりや)あたりで様子が変わってくる。
道の波打ちも多く、マツダの看板見える頃から空気の色味が変わる気がする。
瓦礫が川にある。まだ山の中なのに。視界が開けたらもう両側に瓦礫。
中心部付近は川の瓦礫も撤去進み、蛇腹のパイプ?で川に水を流している。
地上も優先順位あるように見えるほど瓦礫撤去進んできた。

志津川高校は土曜だからか雰囲気が違うように思えた。
14時から吉本興業のイベントでワッキーやなぎだたけしなど数名来る。
13時から駐車場誘導整理にボランティア男性2名借り出されるので、物資整理は午前中に荷分けした大量の冬物を一つずつロープで2階ギャラリーに上げなければいけない。
ボランティア6名応援に来てくれたので物資整理も搬入もはかどった。
今日だけ短期で来た方の一生懸命さに助けられ刺激を受けました。

東京の浅草から若い夫婦が車で来ていた。旦那さんがGWボランティアして、奥さんは今回初めて。
埼玉の飯能から50代のお医者さん夫婦も車で来ていた。奥さんの実家が須賀川で、
会津地方に支援物資を運ぶことを繰り返していたが、今回志津川。
ロシア製の機械で放射線以外も細かく体内被曝のわかる(治療は出来ないが判断できる)機械を仲間がお持ちで、何度福島に通って帰ってきても奥さんは被爆しない体質とわかったという。20歳の息子さんは行ってすぐ甲状腺が腫れたそうです。
仙台市宮城野区から来ていた男性は子供服仕分けに戸惑っていたが、自分の子どもに着せられるかどうかを廃棄(汚れ具合等)の基準にしていた。
もう一人仙台から来られた女性は、保健師としての出発点が志津川だったと言う。その頃お世話になった方は亡くなってしまったが、週末に続く平日をお休みして(今回は土曜から火曜まで)、毎日仙台から通うと言う。
片道3時間くらいなので朝5時半には出るので大変だが、家に戻って休むほうがいいと言う。

仮設の志津川病院の屋根にとまる青い鳥

南三陸町災害FMに神戸の看護師さんが出演。
彼女はアロマテラピーとマッサージで志津川高校の被災者と関わっている。
彼女がファンのna-o(なーお)の曲をラジオでかけてもらいたいと持ちかけたのがきっかけで出演となった。
また彼女はFM出演後、アリーナ隣にある仮設の志津川病院を訪ねた。ここはイスラエルの医師団が来日して持ち込んだ機材をそのまま残してくれて、検査や治療に利用しているそうです。

自衛隊風呂は男女別。混むと順番待ちをする。石鹸・シャンプー類はある。
隣り合わせた人が高校に避難している方で橋幸夫一団コンサートのとき一緒になった子育て中の人。
「さすがプロだねぇ。ほんとに楽しかったねぇ。」と言う。よかったなぁ。

21日の夜7時から高校で、自衛隊のサンシンズとこどもたちによる三線コンサート。
沖縄から自衛隊が来たとき三線を弾いてくれて、聞いた子が教えてくれと言って教わり始め、夢中になった。
自衛隊の隊員が交代して三線も増やしてくれて、子どもたちの楽団になった。
高校生1人中学生5人が三線、小さい子達がコーラス。自衛隊もギター、三線、コーラス、指笛。
曲は、祝い古酒、安里屋ユンタ、てぃんぐさの花、三線の花、島人ぬ宝、上を向いて歩こう。
司会していた女性は、ホテル観洋(避難所)から通う避難所運営スタッフ(保育士)。
聴衆も手拍子や歌、手を挙げて左右に揺らして一緒になる。
いつも中心になって教えてくれてメインボーカルもする自衛隊の方が大怪我?で来れなくなってみな落ち込む中、それでも頑張って笑顔で演奏していたそうです。
子どもたちも夢中になるものがあって、毎日高校に持っていってたり、きこえないところで練習していたそうです。
楽しかったです。こみ上げるものがたくさんありました。

三線コンサート後の記念撮影

さて、今日はこれまで。もう行かなきゃ。今日は良く晴れてます。
ちなみに22日の日曜は工藤君には会えませんでしたが、ご両親お兄さん妹さんと一緒に居ました。
今夜報告書きます。遅くなってしまって御免なさい。

矢野智子


 

 


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