智ちゃんの志津川ボランティア日記 E
番屋プロジェクトへ ―5月22日(日)


みなさまこんばんは。
今日の志津川は冷たい風のよく晴れた日でした。
米川の夜空に星がとても強く光っています。
報告が遅れがちで恐縮です。

5月22日(日)の報告。

番屋の内部

朝から小雨と本降りの繰り返しで寒い。
工藤君のお父さん方の番屋プロジェクトは建物が建ち、22日には壁に漆喰を塗るそうで、私1人参加しに行く。
マニュアル軽トラ運転で、志津川漁港市場前にある、元漁協倉庫の基礎の上に建つ番屋へ10時頃到着。
先日工藤君との電話では、日曜行けなくなったけどお父さん居るから大丈夫と。
番屋の辺りには沢山の人が居てどの方がお父さんかわからない。
宮城大学と胸に書いてある蛍光黄緑ジャンパーの男性を先生かと思って
「宮城大学の三年生工藤茂樹君のお父さんはいらっしゃいますか」と声をかけたら「私です」と。会えて良かった。

「野田北の。聞いてます。沢山物資ありがとうございます。何にもなくなったから何でもありがたいです。」とおっしゃる。
番屋の中は木のいい匂い。お酒を勧められるが車なので他の飲み物いただく。
「神戸の人も自分達の時と違うと言ってます。自分達は潰れたり焼けてしまってもそこに行けば取りに行けたけど、今回は何もなくなってる。」と話すと、「違うって言ってましたか、そうですか。」
小柄でほっそりしてメガネをかけて、大きな声で話して大きな声で笑い、よくお酒を飲みます。(30代で胃の全摘。強かった昔のペースで飲むので昔より早く酔う。弱くなっているそうです。)
しづがわ牡蠣工房(有限会社 大清)の代表取締役 工藤忠清さん。
工藤君のお兄さん広樹君23歳も一緒に働いています。
お母さんは事務。妹さんは高校生、ソフトボール部です。(お兄さん2人が野球してた影響とのこと)

宮城大学ジャンパーの工藤さん(これは世界鷹取祭のジャンパーじゃない)

「昨日(21日)誕生日だったんですよ、47歳」と工藤さん呟いたら周りの仲間の方にきこえ、
「え?なんで言わねーの。俺来週」「俺過ぎた、9日」と次々声がかかる。皆明るい。

木材が積んであり、皮を剥いでいる。牡蠣いかだ、にするそうです。
工藤君のおじいさん(70代)も皮を剥いでいる。がっしりしていて明るく、ぽそっと言う時も笑った顔もかわいい。

番屋の中は木の匂いが気持ちいい。蛍光灯で電気もついている。壁の一部がロープで開閉調整できる窓になっている。
大きな木のテーブルが二つ。椅子は木のブロック状のものを積み上げていて自在。
入り口には別のテーブル。奥には炭火焼の炭に火をつけている。
試験的に海で網を置いて獲れた魚を捌いてお刺身、あら汁、チャンチャン焼き。(大きな声で言ってはいけない)
おおご馳走です。かれい、あいなめ(ねう)、銀鮭、こはだ、ほしがれい(えんがわ)の刺身。あいなめのあら汁。

工藤君の兄・妹が宮城大学の文字を貝で作る。見守る祖父。後ろのオレンジのは市場の骨組みです。

雨で漆喰出来るのかなと職人さんに訊ねると「これ以上降らなければ大丈夫ですよ。」

ご馳走の後、午後1時頃から漆喰はじめる。雨も上がってきた。番屋の外壁の下のほうに塗り始める。
職人さん二人がきれいに塗った上に加わる。ホタテ・牡蠣・ムール貝・ほやなどの貝をくっつけていく。
工藤君のお兄さん広樹君と妹みきさんが協力して貝で『宮城大学』と書き始める。
周りからあれこれ口や手が出てくるとお兄さんが『ぼくにやらせてください!』と主張して、皆彼に従う。
若い人を大切にして見守ってるやりとりに思えた。あったかい人々です。
このプロジェクトが様々な方の協力を得て、人が集まってきて、進んでいく理由がわかるような気がした。
最後に作られた『SGS』は志津川漁協青年部。

午後3時から<はるかのひまわり>。参加者も集まり、番屋横に植える。
神戸、新潟からのリレー(土曜に中越の方お越しになったそうです)。

夕方、番屋の中で話していると、お1人が名刺をくださる。
「名刺も流されちゃって、何にも無くなって。これ作ってもらったの。住所と電話、名刺で証明できるから。」
その方は船が残った方。
隣に座ってる方は、民宿をしている方。
「船がひっくり返って。丁度時化前で、重油を一杯入れたとこだった。皆の迷惑になるから早いうち処分した。エンジンとか売ればいくらかになっただろうけど、置いとくと海が汚れるから。名刺作るとき船の名前どうするか。今はもう船が無いから。」
工藤さんは陸の上で、自分たちは海で、と役割分担して、自分たちが決めたトップの工藤さんを支えるんだと言う。
そして若い方を育てる。網を作るのも初めてなら時間がかかってもその次のときは少しうまくなる、その次はもっと、と。

東松島市からも漁協研究会のお2人が番屋視察に来られている。会長の熊谷さんと高橋さん。
志津川に来て人の出入りが多いのに驚いたと言う。志津川の人は温かいし元気がいいという印象。
東松島にも番屋を建てる。遠くでなく地元で集まる場所がどうしても必要。人と交流して情報交換、発信基地。
東松島は五分の一に縮小した。40歳なので20年30年先をみて、若い人で頑張っていきたいと言う。

この日は東京からご夫婦と息子夫婦とで珈琲をいれに来たご家族が居ます。
栗駒出身のご主人は神戸がフェリーを使った国際空港構想のとき関わっていたそうです。 高校野球のとき負けた相手と45年ぶりに再会し、そのお相手というのがはるかのひまわりを進めている方でした。
また、3年前の宮城内陸地震で孤立してアマチュア無線で孤立を最初に伝えたご夫婦も、栗駒の山の水としどけという山菜を摘んで来られていた。当時ひまわりおじさんにお世話になったということです。

今日はこれまで。
寝ます。おやすみなさい。

矢野智子



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