1995年9月21日発生した集集第地震は台湾中部に大きな被害をがもたらした。一方、園復興まちづくりでは様々な進展があり、神戸とも新たな経験交流が始まった。ペーパードームの台湾再生を原点として、被災地市民交流会は現在も活動を続けている。。
台湾921震災とは


1999年9月21日深夜1時47分、台湾中部南投県集集を震源地とするマグニチュード7.3の地震が発生した。およそ80キロに及ぶ車籠埔断層の破壊によって台湾中部の広い範囲が影響を受けた。死者2,455人、重軽傷11,305人という人的被害とともに、全壊38,935戸、半壊45,320戸、合計84,255戸の住宅をはじめ、学校などの公共建物、道路などの公共施設にも多大な物的被害をもたらした。被災地の中心は台中県、南投県の両県で、台中市など大都市部についても集合住宅を始めとする被害があったが、中小都市や農村集落、さらには山岳部の原住民集落など広範な地域に被害が拡がったのが特徴である

行政区分は当時のもの。赤字は直轄市 各県・直轄市別住宅全半壊戸数。(資料:行政院921震災災後重建推動委員会)

こうした農村部は、農業の生産基盤が弱体化する中、都市への人口流失、高齢化が進み、さらにWTO加盟に伴って産業転換が迫られるなど、震災前から多くの課題を抱えていた。したがって、復興は住宅を初めとする物的な再建だけでなく、産業や福祉などを含む生活再建が極めて重要な課題となった。また、山岳部に位置する原住民集落は斜面地など土地の安全性の問題もあり、全村移転を迫られるところも出てきた。この震災によって都市部、農村部、山岳部の抱える問題がおしなべて表出したわけで、いわば台湾社会が挑戦する課題の縮図であったといっていい。

台湾921震災の復興

 
震災後ただちに「緊急命令」や緊急措置が打ち出されたが、その中で全壊世帯に20万元、半壊世帯に10万元の「慰労金」支給、仮住居対策として用意された「家賃補助」、中央銀行による1,000億元枠の「住宅再建低利融資制度」といった方針が打ち出された。引き続いて既存ローンを元の銀行と協議の上返済免除を受けられる「協議承受」や、一定の条件があれば審査無しで建築できる「規制緩和」など、自力再建支援という観点からみると、わが国と比べ相当踏み込んだ対策が素早く打ち出されたといっていい。

こうした自力再建支援策は条件に恵まれた再建能力のある被災者に対しては確かに効果を発揮するが、様々な問題をかかえた被災者を取り残しかねない。このため921震災重建基金会による支援など自力再建策を拡充する様々なメニューが追加された。これらによって少なからぬ課題が解決されたものの、自力再建そのものが困難な被災者もあり、こうした被災者に対し公的住宅供給の必要性が高まってきたが、具体化はなかなか進まなかった。やっと震災後3年以上たって、合わせて1500戸程の低価格公的分譲住宅、低家賃公的住宅が供給されたが、建設場所など被災者のニーズに合わない点も多く、この点での施策は十分な役割を果たせなかった。

復興まちづくり(社区営造)については、様々な進展があった。台湾では震災時点で揺籃期を含めると10年余りの「まちづくり」の経験があったが、こうした蓄積が復興まちづくりを進める原動力になったことは確かである。震災直後から被災地には、個人、企業、専門家、団体などのさまざまな民間の支援者が駆けつけ、一方、いくつかの行政機関が社区の策定した再建計画を基に補助や支援をするまちづくり型制度を用意した。また、文建会は被災地に4つのまちづくりセンター(社区営造中心)を設置し、あわせて60地点の社区を選定し、重点的に専門家を投入しながら支援する仕組みを作った。

これらがすべて成功的に推移したわけではないが、農村部を中心に多くの社区で復興まちづくりが取り組まれ、農業や産業の転換、高齢者の生活支援、自然環境の保護・育成、原住民の伝統文化の再生などをテーマに、注目すべき成果を挙げたところもでてきた。たとえば、衰退しつつあった桃米村は震災で大きな被害を受け復興の方向を見出せなかったが、新故郷文教基金会(埔里に拠点をおくまちづくりのNPOのような組織)の参画のもと話し合いを進め、村の資源である自然生態を再評価し、生態を自ら学習し、生態を生かした公園をつくり、民宿、レストランなどを経営し、自然を求めて訪れる人たちを迎える生態村をめざしている。