神田神父、被災地をゆく ―東松島市野蒜地区へ
2011年3月26日 (土)

今日は朝から松島町町役場に行きました。松島町の町役場の副町長さんは以前たかとりに救援に来てくれた方でした。松島町は島々に囲まれて比較的に被害は少なかったのだそうですがそれでも被害は大変です。

東松島市野蒜地区

松島町よりも被害の大きい隣の東松島市に一緒に行くことになりました。副町長さんも震災後初めて行くのだそうでちょうどよかったのです。天然ガスで動いているタクシーを手配して回ることにしました。タクシーの運転手は女性の方で実家が東松島市野蒜地区の方でした。彼女も震災後初めてその地域に入るのでした。

タクシーに乗って20分ほどで、周りの様子はガラッと変わってしまいました。私も阪神大震災後、新潟、台湾、コロンビアの被災地に行きましたが、ここの現場に来て、これまでとは比較にならない惨状に言葉をなくしてしまいました。隣町の副町長さんでさえ言葉をなくしていました。運転手さんは精一杯地域の説明をしてくれてますがとても悲しそうでした。

仙石線野蒜駅

道はなんとかタクシーで通れましたので直後はもっと酷かったのだろうと想像します。瓦礫の広がっているところに家々が立っていたとは想像もつかないです。なぎ倒された松の木に生活用品がぶら下がっているのに胸が詰まりました。野蒜駅の時計は2時46分で止まったままでした。一か所で自衛隊の人たちが行方不明者の捜索をしていましたが、それ以外にはほとんど人影はなくまだまだ手が回っていないのを知りました。ただここはボランティアのレベルではないと思います。

タクシーで町役場に戻る途中で運転手さんは「あっ」と言って、外の人に向かって手を振っていました。どうしたんですかと聞くと、「震災後、今初めて出会った同級生なんです」と涙ぐんでおられました。

野蒜小学校。比較的海からの距離があったため住民は避難してきたが、津波はここまで来た。3月28日から野蒜第2中学と合同で授業が再開される。

野蒜小学校に行きました。地震後にこの小学校の体育館に避難した人たちが津波の被害にあった場所でした。被害にあった避難してきた人たちの自動車が百台ほど無残にも放置されていました。

この度の災害はあまりにも広大で何に手を付ければいいのかさえ分からずにいます。ただ言えるのはご縁があってつながりのあるところとつながることしかないのでしょう。そういう意味ではたかとりは松島町とご縁があってつながるのかなと思います。そしてまた、これまでたかとりとご縁があった町々とも間接的につながって行くのでしょう。被災地では隣にいながら隣町の状況もテレビなどでしかわからず、副町長さんは今回こうして実際に自分の目で現状を目の当たりにし、改めて隣町の支援をなお一層強化することを心に決められました。

日本三景の一つ松島。いつか観光に行ける日を夢見て。。。
http://www.town.matsushima.miyagi.jp/

更に多くの写真あります。
https://picasaweb.google.com/108810211903027290027/20110325#

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